寺越隆喜・担当回

鹿島から与えられた命題「私にとっての演劇」に対して、寺越は語りという選択を取った。家族関係、女子とうまく話せなかった中学時代、高校サッカー部時代を振り返り、なぜ自分が演劇をやっているのかを語りによって示した。言葉の先行する側面が語りにある中で、2日目の発表者全員が「語る」という選択をとったのである。

父のカツラの話をする寺越

父のカツラの話をする寺越

中でも寺越の語りは自身の生い立ちを語る自分語りでありながら、物語的な展開を見せた。例えば、「そういえば、〜だったんだけど」「〜って思ったんだよね」というような寺越自身の一人語りが続きながら、寺越の物語に登場する姉や父、姉の友人のみどりちゃん、サッカー部の先輩の口調が時に再現される(それも違和感のないかたちで)。話が移る際の切れ目もゆるやかにつながりを帯びており、寺越はユーモアあふれる表情を時折見せる。以上に挙げたような要因が重なることで、ノンフィクションであるものの、寺越の物語として我々は一人語りを容認したのだろう。

ユーモラスな表情の寺越

ユーモラスな表情の寺越

姉と両親の仲違いから、姉の結婚式に親族で唯一参加した話。参加者4名ほどのお通夜のような結婚式をなぜやったのか疑問に思っていた話。頑固だと思っていた父。レギュラーになれなかったものの引退せずに最後まで部活を続けた同級生をダサいと当時は思っていたこと。わかりあえない対象と寺越自身を重ねあわせていくことで見えてくるものがある。昔語りに今の感情が交差していくことで語りは臨場感を帯びる。

自分と他人との距離感をはかる寺越

自分と他人との距離感をはかる寺越

また、寺越の今回の特徴として、語ることに比重があり、身体の移動はほとんど行われていない。つまり、話している内容(言葉)が先行するかたちである。(それはもちろん語りという手段を使っていれば起こりうることなのだが)もし、ここに、寺越の空間を意識した身体が介入するとすれば、どのような現象が起こるのだろうか。


話はなぜ演劇をやっているかというところに立ち返る。高校サッカー部時代の話で、レギュラーを取れないもののずっと部活を続けていた同級生が3人いたが、自分は途中でフェードアウトし、選手権大会の優勝を客席で私服を着て見届けることになったというものがあった。この時、寺越は自分に「なさけさな」を感じたという。このような「なさけない」気持ちを二度と味わいたくない、やり残しを作りたくないという思いから、演劇を続けているという。寺越にとっての演劇とは即興で自分を語ることであり、やり残しを作らないための一つの選択なのである。

上半身の動きが多い寺越

上半身の動きが多い寺越

しかし、すこし疑問が残るのは、やり残しをしないための手段がなぜ演劇であったのかの部分だろう。寺越と即興語りの相性を我々は目にしたものの、寺越は演劇の何に惹かれているのだろうか。やり残しをしたくないという寺越にとっての演劇とは一体何なのだろうか。(宮﨑)


【寺越 隆喜 Takaki Terakoshi】

大学を卒業後、一年間フリーで様々な舞台に参加。そしてその後、舞台美術を使わず身体のみで戦国時代から宇宙船内など様々なことを表現して、人間の真理を追求する劇団IQ5000(主宰 腹筋善之介)にて2014年まで7年間在籍。退団後自身のプロデュース企画「アフリカン寺越企画」を立ち上げて公演する。主に舞台中心の活動。近年は海外の演出家との作業とかにも興味があり様々なWSに参加。