滞在6日目にクローズドで行われた中間シェアと、最終日となる7日目に、観客を招くかたちで行われた公開シェアの記録チーム(飛田、宮﨑)によるレポートです。
宮﨑莉々香のレポート
寺越には話術がある。担当回でも与えられた二時間を自分にとっての演劇を「語る」という手段を選びながら、おもしろく掲示した。これまでの自分の人生を語るという方法の中で、なぜ演劇なのか、にアクセスしようとする。中間シェアでは、20分ほど、家族の話とミクロネシアに行き現地でサッカーを教えた話をした。担当回と異なったことは、「語り」に身体の要素が加えられた点、昔の話に今の自分、昨日の夜の自分の出来事が挿入されていた点であった。寺越は、語りに動きをつけることで、その語りのノイズの発生や立体化を試みた。語りと身体は対になるものだろう。その対になる中間物を寺越は見つけようとしていたように思う。
公開シェアは屋上で行われた。屋上には無数のゴミ袋が散らばっており、観客は中央に霧散したゴミ袋を囲むようにして集まった。寺越は喫煙スペースでタバコを吸っている。タバコを吸い終え、「しんやくんとまさやくんってのがいて…」とふと語りはじめた。
語られたエピソードは主に三つ。一つ目は、双子のしんやくんとまさやくんのエピソード。二つ目は、山口のエピソード。そして、三つ目に谷山のエピソードだ。ゴミ袋をその人物や、その当時、周りに居た人々に見立てながら、語りがなされていく。時折、はげしく動きながら。
(1)双子のしんやくんとまさやくんのエピソード
しんやくんとまさやくんは双子でそっくりで、かっこよくて、すごくモテる。小学校の頃はよく遊んでいたが、長いあいだ会わなくなった。(しんや・まさやをゴミ袋で示しながら)会わない間に、まさやくんは相変わらずかっこよくて、しんやくんは顔がむくんでかっこよくなくなっていた。(しんやを落とした時に、まさやよりも軽いゴミの音がする)しんやくんは、膀胱に水が溜まりやすい病気で成長がうまくいかず、顔がむくんで、背も高くなかった。こんな二人だが、今は結婚して二人共が家庭を築き、幸せに暮らしている。これってなんなんだ?しんやくんが病気にならなかったら、ぜったい喧嘩していたと思う自分。しんやくんが病気になったからこそ、二人は喧嘩しなかったのではないか。自分のうがった見方で人の“人生”を判断するのはおかしいのだろうか。
(2)山口のエピソード
「人生って言えば昔サッカーやってた時に…」と言いながら、山口くんが登場した。山口くん、ゴールキーパー、ディフェンスがゴミ袋で登場する。そのように話をしながら、寺越は着替えタイムに入り、シャツとズボンを新しくした。サッカーの話をするからだろうか。山口はゴールを守っていて、オレがシュートを撃ち、山口はジャンプしてボールが股間に当たった。血尿が止まらなくなり、病院へ。医者は両親を呼ぶように言い始め、大事に。結局大事には至らなかった。それから数年後、山口は結婚、現在子供がほしいとおもっているらしい。しかし、なかなかできないと言う。もしかして、あの時の事故のせいかもと罪の意識が再び。しばらくして、第一子が産まれたとの知らせが。もし、あの時のシュートで山口の“人生”を狂わせていたら、どうなっていたのか。警察官で、子ども好きな山口の人生がオレのせいで狂わなくてよかった。
(3)谷山のエピソード
寺越は大きなゴミ袋から谷山を出す。谷山の周りに、集まってよくだべっていた友達を袋から出し、つくっていく。ある日、谷山が失踪した。彼女にも、親に聞いても、居場所はわからない。次第に、どうして失踪したかがわかりはじめる。谷山の彼女が妊娠したのだ。当時、オレたちはまだ大学生だった。失踪から一週間後に谷山は戻ってきた。やりたいことがあって、そのために学生をしていたが、やめなければいけない。今思えば、当時のアイツにはその選択肢しかなかったんだろう。谷山を懐中電灯で照らし、思う。谷山は今でも、あの時妊娠してなかったら、“人生”がちがっていたのかもしれないとこぼす。
「人生の転機がいつかというのはわからない」と言い寺越は観客を照らす。ゴミを一つの袋にまとめはじめ、また、着替える。ゴミをすべて回収し、ベンチにまた座り直す。寺越の公開シェアのミソは、友達がゴミ袋として具現化されていた点だろう。ゴミは普段必要ないものとされるが、その必要ないものを、大切な思い出を語る際に使用した。ゴミであらわされる友人たち、最後は回収してしまう自分。語りの最後に残るのは自分一人だ。その寂しさのようなものが、最後に寺越がゴミを拾っていく様から、うかがえた。時に友人の口調語りになり、その時の自分になり、今の自分になる。人生の語りがもたらす、自由な時空間の行き来、ゴミ袋を使った世界の見え方によって、もたらされるむなしさの表出、不必要なものも、必要なものも同じであるということ。寺越にとっての演劇とは、人生と同化されることでありながら、不必要などないという思考のあらわれでもあるのかもしれない。
飛田ニケのレポート
「演劇は、人生」
そうであることはゆるぎない、といった感じで、寺越の中間シェアははじまった。2時間喋り通した滞在2日目の担当回と同じように、20分程度話す。かれにとって、いつも、語られる内容が問題となっているようで、その語りの技術(語り口)は、かれの生活と切り離しがたくあるようだ。ここでは、ミクロネシアに行って、現地の子供たちとサッカーをやった記憶が語られる。プロサッカー選手と紹介された(そうではない)寺越が、ミクロネシアの子供たちにサッカーを教えるというシチュエーションで生まれた、「いい空間」を演劇でも引き起こすことが、寺越にとっての演劇の理想ということであった。寺越は「わたしにとっての演劇」という問いに対して、語ることを選ぶ。わたしたちはその語りから、「いい空間」を想像してみる。かれの語り口によって生み出される演劇の空間が、同時に「いい空間」でもあることが、願われているとして、語りの内容と、語り口がより重ねられるように、公開シェアが形作られた。それは、人生と演劇を重ねるような試みだ。
劇場の屋上に、ぞろぞろと向かうと、夜の若葉町の眺めが広がっている。近くのマンションの窓から見えるパジャマ姿の子供や、ちかくの映画館に並んでいるひとびと。喫煙スペースでもある、ここでベンチに腰掛け静かにタバコを吸う寺越の姿が目に入る。あたりには、大小のゴミ袋が散らばって置いてある。物干しに、寺越の私物と思われる(というか滞在中いつも着ていた)サッカーのユニフォームや、下着が掛けてある。
とくに明かりもない空間なので、寺越と記録チーム(筆者)および参加俳優の鶴坂の計3名が、懐中電灯を持って、照らす。手伝うぼくたちは、好きなところを照らしていいと、あらかじめ寺越に伝えられていた。ぼくは、屋上の貯水タンクのある場所にハシゴで登って、高所から照らすことになった。
上演は、3部構成になっていて、ひとつのエピソードを語り終えると、寺越の着替えの時間が持たれた。最初、白地に赤のサッカーユニフォームだったのが、オレンジ、紫のものへ変わっていく。着替えにおいて、素っ裸になるので、照らすのは控えた。
ひとつめの、エピソードは、シンヤくんとマサヤくんという双子の友達についてのもので、イケメンだったふたりが、いろいろあって、ひとりはそうでもなくなってしまったが、それによって今うまくいっているということを推測するもの。
ふたつめは、ヤマグチくんとのサッカーで、ボールをかれの股間に当ててしまい、傷が入り、一時は、不妊も危ぶまれたが、のちに警察官となったかれに無事に子供ができ、寺越が安堵するはなし。
みっつめは、タニヤマが、彼女を妊娠させてしまい、失踪するのを顛末に、大学を辞めたかれが、そのことを後悔してるのかもしれないと、察するはなし。
これらのエピソードを、ゴミ袋を、人物や、モノ(サッカーゴールや、家など)に見立てつつ話していく。そこで話されるのは、どれも、人生の転機にまつわる話である。担当回や中間シェアでは、じぶんの実体験を話していた寺越が、ここで、じぶんとだれかの関係性のなかで、人生の転機について語っていくことを選んだことによって、見立てられるゴミ袋と語りの主体である寺越の距離は、可視化される。生活の手触りのなかで、小道具として選ばれたゴミ袋は、かれに扱われることで光を当てられる。それは、語られることで浮かび上がる他者の人生のメタファーであり、寺越にある種の親しみを込めて扱われるモノたちである。そういえば、かれが着替えていくユニフォームもかれにとって着慣れた服装だ。着替えのとき、ちらっと見える寺越の身体も、もちろん彼にとって親しみのあるものだろう。それらが、ひとしく懐中電灯に照らされて生まれる、親密な空間が、若葉町の夜空の下に仮設されている。にぎやかな町の雰囲気と、他者の人生の転機に立ち会い、それを思い出す寺越の語りの空間が、接し合うような時間を味わう。それは「いい空間」であり、演劇と人生が重なり合う時間にほかならないだろう。
ゴミ袋をひとつにまとめたのち、「昔、トシキくんてのがいて……」と言いかけて、からかうように笑い、ふたたびタバコを吸い始めた寺越を照らしていた懐中電灯の光が消えたところで、公開シェアは終わった。
【寺越 隆喜 Takaki Terakoshi】
大学を卒業後、一年間フリーで様々な舞台に参加。そしてその後、舞台美術を使わず身体のみで戦国時代から宇宙船内など様々なことを表現して、人間の真理を追求する劇団IQ5000(主宰 腹筋善之介)にて2014年まで7年間在籍。退団後自身のプロデュース企画「アフリカン寺越企画」を立ち上げて公演する。主に舞台中心の活動。近年は海外の演出家との作業とかにも興味があり様々なWSに参加。