坂東芙三次・担当回

昨年度の〈Ship〉の参加者である、 坂東芙三次 (ばんどうふみじ)による、「俳優の語り」について考える時間。4日目ということもあり、参加者からは若干の疲れも感じられたが、その分、坂東が提示するワークや、そこにある問題意識に、センシティブに感能しながらも、ユーモアに肩の力を抜くことができるような、和やかな午後の時間となった。

坂東が、用意してきたワークは、およそ3つある。それは、彼女の最近の関心にある古事記から地域芸能にわたる芸能者や人物の名前からとられたワークで、それぞれ「稗田阿礼(ひえだのあれ)ごっこ」、「瞽女(ごぜ)ごっこ」、「巫女ごっこ」と彼女は呼んでいた。稗田阿礼は、古事記の編纂者のひとりで、瞽女とは、三味線などに合わせて、瞽女唄といわれる、節をつけて物語を語る、盲人の女性芸能者のことである。では、これらのワークについて、ひとつずつ見ていこう。

鹿島さん土産の、梨をたべながら

鹿島さん土産の、梨をたべながら

「稗田阿礼ごっこ」では、漢字だけを10文字程度用いて、自分を表現するような文章を書いてみる。それを右隣のひとに渡し、受け取った文章の読み下し文をつくってみて、それを発表していく。坂東が、「誤解になってもかまわない、正確に理解できるわけないんだから」と言うように、そこで口に出された言葉は、本人の意図とは無関係かも知れない。しかし、すでにこの滞在で、知ることになった人柄やイメージに寄り添うように、解釈・翻訳されることで、そこには、はっきりとした動機が生まれている。それが、発語にあらわれているし、だからこそ発語できるような、そういった言葉として、新しく産出されていたと言えるだろう。

彼女が、ここで意図していたのは、俳優が語るときに、その覚えられた言葉をどのように解釈すればいいのか、という投げかけだろう。その発語に持つべき「責任」や、動機は、誤読を恐れず、テキストに寄り添うようにしてはじめてありうる。稗田阿礼は、当時、漢文で書かれていた日本の歴史書(かれはそれを膨大な数暗記していたという)を、だれでも読めるように読み下し、それを口述筆記したものが、古事記となっていく。坂東は、記憶されたものが、翻訳され、口伝えで語られるこのプロセスに、俳優の仕事の「先輩」を見ているようだった。

図版のように並べられた漢字にエモさがある

図版のように並べられた漢字にエモさがある

つぎの「瞽女ごっこ」では、自分のもっている方言(標準語ではない言葉遣い)や、もっていなくともその口真似をつかって、じぶんの知っている昔話を、ひとくさり話すというワークが行われた。そこで話されたのは、日本でポピュラーな、桃太郎とか、浦島太郎とか。ただ、そこには確かな筋はなく、細かなディティールで、豊かだったり、忘れた筋を、捏造していたり、集合的に記憶されている話の即興による差異が、ぽつりぽつりとあらわれては、空間に余波を残していく。その物語(語り)のひろがりとともに、方言が用いられることによってうまれる中心──語り手と物語の距離感が、ぐっと近づくような求心力──が、このワークの面白さだったと言えるだろう。その豊かさに、若干ふりまわされているような印象はぬぐえないが、そのあとで坂東の語ったことを整理しておこう。

瞽女は、膨大な物語を記憶しているが、その物語が、戯曲のように書かれたものとしてあるわけでもないし(そもそも彼女たちは盲目であるために、読むことはできない)、詳細に決まっているわけでもない。その語りは、語るごとに違うだろうし、聞き手に応じて、かれらを楽しませるために誇張されることもあっただろう。彼女たちは、その大まかな筋のひきだしを、膨大に蓄えているのだ。その芸は、師弟関係のなかで口伝えによって稽古されていく。この関係性のなかで、技芸として価値付けられ、厳密な技術が獲得されていく。それが、決まり文句や節などの型として伝承されてある。このような文化を知ることで、俳優や演技について新たに発見されることは多いだろう。その瞽女の感覚を、ある種の型としてとらえることのできる方言(あるいは方言もどき)を用いて、語り手、聞き手とともに体験することで、坂東の感じたおどろきが、この場にシェアされることが「瞽女ごっこ」の目的だといえるだろう。

「慣れたら読めるけど、やばい読みづらい」

「慣れたら読めるけど、やばい読みづらい」

そこから、人形浄瑠璃でつかわれる、義太夫節の床本(ゆかほん)のコピーを見せながら、その書物の役割について話はうつった。この床本は、読み方がわからなければ読めないような文字で書かれてあり、それは常に上演に用意されるが、ほとんど用いられない。それはそこにただあることに意味があるような、書物にたいする信仰によって必要とされている。 「文字を、これは道具だって思った瞬間に雑に書くようになった」と、彼女は言っていたが、それが道具である以上の、ベンヤミンがいうようなアウラを持ったものとして受け継がれてきた感覚へのおどろきが、この話の中では共有されようとしていた。それは、俳優が語り、つまり、口伝えの言葉を重視するのとは、相容れない感覚であるとともに、であるからこそ、この感覚について考えることで、俳優の仕事をとらえなおす契機となるものだろう。それは、俳優が語る上での「責任」を持つための方策を示しているといえるかもしれない。

小濱の耳元にそっとささやく前田

小濱の耳元にそっとささやく前田

さいごに、「巫女さんごっこ」について。ここでは、二人一組になってワークが行われた。まず、片方が一方に、内緒ばなしをする。それを聞いたほうが、オウム返しして、周囲に話す。内緒ばなしの内容自体は、なんでもいいようだったが、ここでは、すきな曲の歌詞を伝えることになった。このワークでは、ただスピーカーのように、聞いた言葉を再生する、その声に従う、ということを体感することが目的であったらしい。その次に、フレームは同じままに、今度は内緒ばなしの内容をかえておこなわれた。話されるのは、自分が伝えたいことを、伝わるようにいうのではなく、穴抜きにしたり、擬音のようにしたり、英語に変換したり、あるいはぜんぜん関係ない言葉にパラフレーズしたりして、変形されたことばで、それを聞き手は、その伝えたいことを汲み取って、周囲に伝える。ここでなされていることは、ひとつめのワークの効果が、よりつよく、暴力的に作用するようなものだ。完全な他者のことばを、自分だけが聞き、そのことばに宿る意図を、汲み取り、その言葉に意識を従属させて、ある意味、無心に話す。そのことによって、信託を聞き、それを伝える巫女のように、ことばを扱うことになる。これは、じぶんに届いた声を、ある種の神や王のような超越的なものとして捉え、それをじぶんに流し込むことで、それによってはじめて発語できるようなあり方だといえる。これによって見えてくる語りのあり方は、俳優の演技の持つ、ある側面であると言えるだろう。それは、他者の言葉を話すということに関する、ストレスを受け入れるようなことで、この無心の状態によって、はじめて語れるような局面がありうるということを示唆している。その完全な受動性からしかみえない、俳優の語り方もありうるということだろう。

坂東芙三次のシン・選書3冊

坂東芙三次のシン・選書3冊

これらのワークの発想は、彼女の持ってきた三冊の本から得られたようだ。そして、この発想のもととなる彼女の関心は、俳優をしているからこそ見えてくる視座についての思索だ。これは、彼女が、前回の〈Ship〉に参加したとき、公開シェアでも言っていた、「わたし(俳優)のほうが断然眺めがいい」という言葉に要約されるだろう。そのときに、俳優と観客のあいだにある、「眺め」のちがいは、前提とされている。その断絶を乗り越えるための「責任」について、これらの三冊を契機に、さらに問いを深めた/深める時間として、この集まりを考えることができるだろう。坂東の現在地は、「歴史のなかで、対等に立っている」という彼女の言葉にあらわれている。さまざまな芸能や社会的役割に使われる語りを貫通して働いているものが、俳優とはなにか、にゆすぶりをかけながら、その再定義をうながす。語りという、歴史の営みで行われてきたふるまいから、俳優を定義し直すことを試みていくことが、彼女の進行形の問いであるといえるだろう。それを断面としてみた、今回の〈Ship〉参加俳優が、どのような問いを得たのかは、わからないが、明日以降のなかで、より深く自分だけの問いを起こす結節点として彼女の開いた時間があるということはできるだろう。(飛田)

効き水のなかに、濃縮還元でないオレンジジュースをそっと置いたことを告白する坂東

効き水のなかに、濃縮還元でないオレンジジュースをそっと置いたことを告白する坂東


【坂東 芙三次 Fumiji Bandoh】

1984年生まれ、愛知県出身。日本大学藝術学部演劇学科演技コース卒。日本舞踊志賀次派坂東流名取。2012年より静岡県舞台芸術センター(SPAC)参加。主な出演作に、宮城聰演出『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜』(2014年 フランス アヴィニョン演劇祭、2015年 モスクワ チェーホフ演劇祭ほか)『メフィストと呼ばれた男』(2016年 TPAMほか)、大岡淳演出『王国、空を飛ぶ!〜アリストパネスの「鳥」〜』など。演出・出演作品では、2013年ギィ・フォワシィ劇コンクール『相寄る魂』にて敢闘賞・讃陽食品賞・朝日ネット賞を受賞、利賀演劇人コンクール2013『紙風船』にて出場。