「行ってきます」
そういうと、彼女は、スタジオのトイレの方に消えて、また戻ってくる。この与えられた2時間で、なにをするのか。前田は、集まったわたしたちにひとつも約束せずに、なにかパフォーマンスのような、あるいは独り言でもあるような、奇妙といってもいいが、演劇が作りだす時間のなかで、わたしたちが、いつか感じたことがある──わたしたちを強引に観客に変えてしまうような──力を持った、空間を生み出していく。「わたしはマエダマナミです」としきりに繰り返す中で、空間を占拠する前田愛美の、俳優としての自立性を強く感じることになる。と同時に、その自立性が、強いほど、観客(にされた)わたしたちにかかる負荷は強い。これを前田は「シャボン玉みたいな膜」と言い、俳優の側からの「自由」を満喫しているように見えた。
このような、俳優である前田の、ある意味、多幸的な時間が、1時間ほど続き、ふいに「演出家の目」について彼女は考え始める。同じ企てる側にありながら、俳優とはまったくべつの仕方で、演劇をつくる、演出家が、どのような目をもって、演劇を見ているのか。彼女にはそれが、大きな溝であるようで、また、これは上演の空間における、俳優と観客の間にある溝と同じものだろう。この溝について考えるために、彼女は、ジャンケンで勝った人を、舞台に呼んで、彼/彼女らに、そこでなにかをするように言う。そのなかで、いくつかの指示を出しながら、それを見て、「演出家の目」を確かめていく。
こうした取り組みのなかにあって、彼女の行為は、つねに現実の思考のつらなりのなかにあり、パフォーマンスのようでいて、そのなかで、それを見る観客の思考と、並行している。ここでも、「演出家の目」が、なんであるのかの答えは、言葉として産出されなくとも、生活と地続きの思考の余白を残して、集まりの中で共有されていたように感じられた。
かなり暴力的といってもいいうながし、企てのなかで、たしかにそれぞれに手渡された問いがあり、そこに前田が用意した答えがあるわけではないが、そうであるからこそ引き出される、(多少ねじれた)対話に、俳優のナラティブの(多少神秘的な)可能性を感じる時間だった。(飛田)
【前田 愛美 Manami Maeda】
1987年生まれ。福井県出身。俳優。立命館大学文学部卒。大学で演劇を始め、2009〜2011年まで同志との劇団、tabula=rasaに参加。『ハムレットマシーン』や前田のmixiを使った作品に出演した。劇団終了後、現在までフリー。京都や大阪にいる人と多く作品を作った。時々東京にも行った。2013年から自作品も作る。『対人関係について』『シオガマ』『正常を見つける』『NO MANAMI』など。2020年、個人サイト「総合住宅まなみ」をOPENした。私から離れた作品さんの生を生きてほしいと、「作品さん.com」も製作予定。