前田愛美の言葉

「私にとっての演劇」を、俳優が、何らかのかたちでシェアする。

〈Ship〉合宿は、8月上旬の一週間に、若葉町ウォーフで行われた。参加俳優は5人。主宰者の鹿島さんに、記録チームが2人。8人での滞在だった。

若葉町は、横浜・伊勢佐木町に近い。「伊勢佐木町ブルース」という有名な歌が、街中の石碑にもある。タイ料理屋さんが多い。明るい感じのする広い歩行者道路。路地に入ると、風俗の看板がみえる。歩いて10分くらいすると、大通りに出て、郵便局。歩行者道路を延々歩いていくと、だんだん大きくなってJR関内駅に着く。

地図をみると、歩いて海にも行けそうだったが、その時には中間シェアに向けて何をしたらいいか、必死になっていたのでやめた。

鶴ちゃんと地図を見た。この一週間、私は布団、近辺の散歩、最後に銭湯に行った。タイ料理、中華料理、牛丼、コーヒー屋、タイマッサージにも行った。

寺越さんは毎日町へ繰り出していたようだ。ほとんどいなかった。最後の彼のシェアが屋上だったので、もしかしたら屋上にもいたのかもしれない。喫煙所、洗濯物干し場だった。近くのマンションの窓が本当に近かった。喫煙所には鶴ちゃんもいた。「お見合いタイム」の時か後か、彼女と屋上で話したら、盛り上がった。小濱さんはよくわからない。ロビーにいて、記録チームと話していたり、料理をしていたり、食べにも行っていたから、実は動きが多かったのかも。内山さんはベッドで落ち着いていることが多かった、イメージだ。

若葉町ウォーフは、一階が劇場、二階が稽古場スタジオ、三階が宿泊施設になっている。この宿泊施設は演劇関係者でない人も泊れる。

合宿の最初の二日間で、「私にとっての演劇」を伝える、2時間ずつの担当会をする。

私はこの合宿の前日まで本番だった。また、C.T.Tという試演会で、何度か一人で出る自分の作品を作ったこともあった。

与えられた二時間という枠の中、自分で設定した〈フィクション〉を次々と突破していこうとする前田。ときに無謀な試みにも映り、一方で大胆な発想で突破したり

与えられた二時間という枠の中、自分で設定した〈フィクション〉を次々と突破していこうとする前田。ときに無謀な試みにも映り、一方で大胆な発想で突破したり

舞台は自由な場所で、自分の思うことを延々と喋り続けることもできる。どの領域で言うか、誰として言うか、変えることもできる。

一方制限が生まれてくる、所もある。台本の時間をやり遂げること、「役」、誰としているか…過ごす時間の選択・決定。そうして確かになること。

一人の人間の中には、多くの時間がある。

(申し開き、生涯に一度 楽しいところ いいところ 行ってきます 喋る きける みれる 欲望のひととおり 姿問題)

人生をどう使おうか

自由な場を与えられたら、10分でひと満足し、30分で構成が出てくる。

今回は「作品」でもない場所で2時間もあるから、俳優が過ごす時間を一通り全部やってみようと思った。

(舞台に入る 行ってきます なる 本番の台本の時間 役 昔の台本の台詞 思いつき 衝動 喋りたいことを喋る ここを「舞台」にするか否か 背骨のワークでフィクションに入る 反射している 鏡 切り替わる 突っ込みのリズムをつけたくなる 舞台の中には入ってこれず、何でも喋れる 前に出るしかない みている 記憶 時間を引き延ばす、切る、制限時間 時間が終わるまで待つ)(お客さんをみまわして、「よい」)(社会的仮面を取り払ってインプロ)

欲求を観察してGOサインを出す、ことをしていた。一つの時間で十分いれそうだが変えてみたかった。時間を引き延ばして味わったり、まだいれる!でも変えれる!とドキドキしたりしていた。一つの時間を作っている最中、別の時間の可能性がある。実は要注意だったのが、「ここは最初から舞台(劇場)ではなかった」。だから、他メンバーにとっては、はじめは見ていていいか戸惑う居づらい時間だったらしい。私のほうでも舞台にしようかちょっと迷ったあと(出る人と決まるから)、みられる方と決めることにした。

また、演出めいた行為もした。ジャンケンで勝った人に出てきてもらう。

会話が興味深い内容になりそうで焦った。ただ、指示通りに動いてもらうのみ…(面白さとしょんぼり感)

これは、演劇を作ることにおいて、俳優が体感から作るのと、演出がその目によって作るのは、違う気がしたからだが、パッと出てきて作るのは無理だった。見られない。(が、回想するとちょっと見えてくる気もする。)

「私にとっての演劇」は、自由な場所である一方、私が一番美しいと思うのは、その人の人生に裏打ちされた、「生涯に一度の演劇」だ。

私にもあった。けれど…、そこで私が見つけた形は、もう十分なようだ。また言いたいことが出てくるにしても、それはその時までない。

体があいている。言うべきことはないのに、エネルギーに満ちた体がある。場所がある。

「使われない私の生」をどうしようか、と思って来た。

***

ノートより

「見ること」 耐えること

動く 動かす

見る

「何を」にかかっている。

単に動かして、生をみてもしょうがない。し、

それは申し訳ないことだ

生きているので舞台に出られる自分へのコメントかと思ったら、担当会でした演出行為についてのコメントだった。

演出は「俳優に責任を負わすこと」が仕事だと思った。

ノートより 前日まで本番をしていた

今にするか、『桜紙』(上演の時間とすること)にするか

なってる、なってない、

初演、再演、今、やめる、

協議をさしはさむ

別の言葉を入れる 入れ、られる!

膜(ある時間とすること)の決意

我慢するの決意

上演の時間を流す・で生きる か、選択可能

 つつ、流れ始める、できはじめる!

ー終演して…

ー再び出てくる、が、膜を、続けることもできる。

喋り、舞台空間になった場所で、より何でもできる!

「後」の時間の受け入れのよさ、入って来る・来ない

ノート

「俳優として意味ある機能になるには」

***

担当回は、前田、内山、寺越、鶴坂、小濱の順だった。また、ゲスト担当回として坂東、弓井のものがあった。

別の日に一対一の「お見合いタイム」があり、個別インタビュー、利き水・ブックWSを経て、中間シェア、公開シェアへ向かった。

坂東によるWSでは、小濱とペアを組んで指定された作業にのぞんだ

坂東によるWSでは、小濱とペアを組んで指定された作業にのぞんだ

フリータイムの時間が多くとられた。

内山の時に驚いた。舞台の捉え方が違う。完結している。私はみる人ーみられる人がいる、その仕組みとして舞台は分かれているイメージだったが、内山の感覚は舞台というより空間としてそこを捉えているように感じた。分かれている上で在る意義を巡らせるのではない、完結した世界だった。これは合宿中の私の気がかりとなった。

そういえば、弓井担当回で赤ちゃんを対象にした演劇のVTRをみた時のこと。行われていることに赤ちゃんが入って行って(実際に紐をひっぱって遊んでいったりして)、そこが「演劇になった」と思ったこと。「演劇になる」入り方は、もっと試せるかもしれない。

彼女は、「対象って考えたことありますか?」と聞いた。私は同じ人に向けてしていると答えた。どんな生活をしているか想像できる、されようとしている舞台の仕組みの中に入れる人たちへ。これも私の気がかりだ。

寺越はずっと半生を語っていた。中間シェアでも変わらずに。だが最後の公開シェアで一番驚いたのが寺越(と鶴坂)だ。

自分の人生の出来事を喋る。喋り続け、られる。だがそれゆえに、演劇の仕組みとして問題をどうあげていこうか、迷った。

内容が大事なのだと思った。変えることができたかもしれないこと、特別なミクロネシアの10日間。その内容について、何を気にしているのかを話したり、見つけようとしたりするのだと思っていた。

けれど…公開シェアでは屋上で、煙草を吸って始まって、ゴミ袋を使い、懐中電灯を他人に自由に照らしてもらいながら、別のエピソードを語っていた。かっこよかった。いつ、稽古をしていたんだろう。こういうことを思って、上演のすがたをうつしていたんだろうか。

鶴坂担当回では自分の全身を描き、連想する言葉を書き込む「マップ作り」をした。その時は精神的な言葉よりも体の部位へのコメントや記憶が優位に出た。(今思えば人の秘密を知ってしまう機会かもしれない。)そこで気になっていたのが鶴坂の「男の人が怖い→男の人になりたい→演じるの出発」だった。「お見合いタイム」の時に、きいてみた。「演じる時って何思ってます?」

二日目におこなわれた鶴坂による担当回での試み

二日目におこなわれた鶴坂による担当回での試み

…真逆のものに擬態すると補完できる。けれど擬態、まねる、から「演じる」に転換したという。…「以前は感情直情型だった。役の人生を擬態する。なりすます。鶴坂は生きていない。なりきることに一生懸命。最近になって、「演じる」に転換してきた気がする。冷静で、おなかすいたなーとか、演技のことでなくて、緊張してるなーとか相手のこと等を考えている。鶴坂が生きている。」また、演劇に対する豊かな思いもみえてきた。「演技をしてたら何の垣根も超えていける。」ちなみに彼女は耳がよく、目による認識が苦手らしい。公開シェアの「読む」と蛇口の水音を連想する。

後、別の世界にいたっていう記憶で不自由と思うのかな、と話した。

内山は「お見合いタイム」で、お茶とお菓子を入れてくれた。こんな仕方もあるのかと思った。最初の前田担当回で前田が奥に走っていった時、一緒に追っかけていったほうがいいかなと思ったらしい。「みる人」のことを考えた。「みようとする人」。どこが演劇か。森の奥で、動物が何か面白いことをしている。たまたま覗き、込む。衝動。

彼女は「同じ場、だけど一人自身に向き合う」、また、言葉にすることを大事に思っていた。

小濱は語り続けた。中間シェアでは鏡の前に立ち続けた。だが、最後の公開シェアではまた語ったのだ。

彼も、彼は、どんな演劇の姿をみていたのだろうか。何の姿であらわされることを、何自体を、大事に思っているのだろうか。

中間シェアの後、彼の稽古に参加していると、舞台装置の面白さにやられた。けれど、私がみていたのとは違う活用を思いながら、それをみていたのだ。

今、ふと、舞台にする・しないが沸き起こる。彼は話した。

彼がなそうとしたことは…問いかけ、応答、変化。そこで変えられるもの。

小濱の初回担当回でとったノート

若い人の演劇みるんが楽しいんだと 変化したい 楽しみ若い人の そのために使わないと 不安で怒り

目の前の人のなりたいものになったらいいのにな コミュニケーションが通行可能にする タイムライン上にどう残していくか 意味が言葉になる前に意味だけみたいな 仙台の土に帰るときに良い土になっていたい 演劇の伝え方ー網の目粗いーそのルーティンを断ち切りたい「どうしたら皆の世界に橋を渡していける」 家族の黄金期が終わったことがわかる 終わっていく、できなくなっていく人たちを、みれているのはいいな 問いをください

当人が光を持って生きているかを気にしているように思える。当事者や、全然豊かな、または苦しい、実人生を送る人たちへ、劇の世界で、何ができるのか。劇があるということは、どんな影響を現実のほうに及ぼせるのか。苦悩だけでなくて明らかさのようなものも、感じているはずだ。

(変化をみるのが楽しい、とは、とてつもないことだな… そこに希望なり意味がつまっているものなのか。)

この問いかけを自分の問題に照らすと、ノート上の解が出てきた。

俳優が社会にあるとはどういうことか。俳優の機能というものは何だろうか。「何をみせるための技術でしたか?」演劇の構造を、俳優の体感を以て考えていくことが、俳優の機能につながるかもしれない。

***

各自の担当回が終わり、ノート上の解を得て、私は盛り上がっていたが、そこから、何をしていいか迷う日を送る。必ずしも作品を作るのではない、この合宿。けれどシェアでは何かの形にして、伝えるという時に、結局私は稽古場を欲し、劇場をシェアの場所に選んだ。

動きが開かれること。

稽古を舞台にうつすこと…

***

何を稽古にできるだろう?と振り返って浮かぶのが坂東WSである。「神の声をどうにかしてききたい」「神をおろす準備」。彼女のWSでは、稗田阿礼ごっこ、ごぜさんごっこ、古代人ごっこをした。

伝えている。読み下す。本当のこと、もしくは納得のいくものとしてそれを聞く。聞く体勢を作る。

俳優のことでありながら、聞く側(というか皆)の要望を映している。

自分というフィルターの入ること、こういうことを言いそう、と言うこと。自分にしか読み取れないものを伝えること。

最終日の公開シェアでのワンシーン。窓から見える街行く人々と、外と劇場内を行き来した前田の身振りは奇妙な並行感をもたらした

最終日の公開シェアでのワンシーン。窓から見える街行く人々と、外と劇場内を行き来した前田の身振りは奇妙な並行感をもたらした

***

生活があってみたいものが出てくる。前日の夜に銭湯に行った。最寄りの銭湯は行きづらく、二番目の銭湯は休みで、少し離れた銭湯になった。脱衣場がわからず変な所で裸になった。でも合っていた。黒いお湯につかる。広い脱衣場に掃除用具が沢山置かれている。ここに来る人たちは私たちがするような演劇を見に来るだろうか。どんな演劇、何を楽しみにみに行ったりするのだろうか。私たちがするような劇を、偶然、みたとして心は動くのだろうか。けれど私には私の生活があって、みたいものが出てきているのだ。

***

「生存感覚が変わる」時なのかもしれないと、鹿島さんと話した時に貰った。

最終日の公開シェアをみて、「それを稽古にしていたのか!」という驚きがあった。一つの公演として観に行ったら、自分と切り離して脇に置いておいたと思う。けれどこれは「私にとっての演劇」をシェアしようとしたもので、各々引き続いていく課題なのだ。

きっとこれからは自分一人だけの世界ではない。それぞれが演劇をしていることを認めることが、未来につながっていく感じがする。

***

けれど私は私でしかない。

衝動の入口を見つける。

[関連記事]

前田愛美ワークショップ担当回

前田愛美公開シェアレポート


【前田 愛美 Manami Maeda】

1987年生まれ。福井県出身。俳優。立命館大学文学部卒。大学で演劇を始め、2009〜2011年まで同志との劇団、tabula=rasaに参加。『ハムレットマシーン』や前田のmixiを使った作品に出演した。劇団終了後、現在までフリー。京都や大阪にいる人と多く作品を作った。時々東京にも行った。2013年から自作品も作る。『対人関係について』『シオガマ』『正常を見つける』『NO MANAMI』など。2020年、個人サイト「総合住宅まなみ」をOPENした。私から離れた作品さんの生を生きてほしいと、「作品さん.com」も製作予定。