滞在6日目にクローズドで行われた中間シェアと、最終日となる7日目に、観客を招くかたちで行われた公開シェアの記録チーム(飛田、宮﨑)によるレポートです。
宮﨑莉々香のレポート
WSの延長線上のことをやりたい、とのことで、内山の中間シェアには参加者の俳優五人が登場した。内山はなにをやりたいかを俳優たちに説明する際、「例えば、宿舎のベッドが心地よかったことを想像したら、それを自分だけの言葉で書き出してほしい」と指示した。自分だけの言葉が紙に書かれ、他者に託される。他者の自分は言葉を引き受けることができるのか、を内山は考えていたと思われる。内山が寺越の言葉を引き受けた時のコメント「例えば、自分が行ってない場所で、行きたいなーと思っているところだと思う。ここじゃなくてもこういう人いるよなーって。」は、他者を感じる中心に内山自身がいる。どこかで他者とはわかりあえないことが前提になっていたと思われる。
内山の公開シェアは、大きく三部に分かれていた。
滞在にいたるまでに考えた「私にとっての演劇とはなにか」を語る
中間シェアで行ったものと同じ行為を俳優たちとする
滞在を終えての今、「私にとっての演劇とはなにか」を語る
1.食事や作業をすることに使用していた共有スペースに観客は集まるように誘導され、しばらくすると窓辺のテーブルと椅子を使用し、観客に背を向けるようにして「私にとっての演劇とはなにか」を語りはじめた。以下、少し引用する。
“家族もいるけれど、協力してくれる人もいるけれど、ある意味ひとりの活動だったと思います。とても幸せなひとりです。そして、一人の活動、ソロからデュオやトリオ、つまり私以外の他者と共に表現することについて考えはじめたのと同じタイミングで妊娠がわかりました。”
その後の語りは、胎児の話へと移る。最初は奇妙で、恐怖だと思っていた胎児が、妊娠五ヶ月ごろ、胎動で何かを伝えようとしてきたことで、他者に感じられ、安心し、愛しいと思うようになったという。表現はあくまでもひとりによるものであると考えていたこと、妊娠中にも、他者だと気づくことで安心できたことはゆるやかにつながりを帯びている。滞在前の内山は、どこかでわかりあえないことに安心している。
2.内山から何をするかの説明が観客に成され、以下のことが行われた。これは中間シェアで行われたものと同じものである。
→1人は、滞在中にエピソードを思い起こす場所を想像し、その場所に対して適当だと思う言葉を小さな紙に書く
→もう1人は、紙に書かれた言葉を見た上で、自分がなにを思ったのかを話す
※紙に書いた人物は途中で離席
→話した後に紙を地面に置く
※これを俳優5人が行っていく
内山は、鶴坂の言葉を受け取った際に、「私じゃ出てこない言葉だけど、すごい言い得てるというか。」と発言した。これまでに語られた他者とのわかりあえなさの姿勢が垣間見られる。内山にとって他者とはわかりあえないものなのだ。「けど、こういう感覚も確かにあったなぁってわかってしまう」とその後に続けられた。この、「わかる」とはなにか。他者について、わからないけど、わかるという姿勢は、内山の今思う「私にとっての演劇とはなにか」にもつながっていく。
3.最後に、内山は観客の方を向き、パソコンを開いて滞在を終えた今、思う「私にとっての演劇とはなにか」を語った。以下は内山の言葉を要約したものである。
“私にとっての演劇とは、「他者と出会うチャンス」である。滞在で目標としたことは、自分の生活や健康を第一優先した上で、時々他者と水のように言葉をこぼすこと。私にとっての演劇とは、「知らない他者と出会い、出会ったものや感じた微細な感覚を自分の中で肥やし、アウトプットすること」。けど、知りたいという願望も出てきた。わかりあえなくていいけど、それでも他者について知りたい、それが私にとっての演劇です。”
これまでの内山にとっての演劇はひとりで行う行為であり、他者とはわかりあえないという徹底さが保たれていた。しかし、七日間寝食を共にする中で、他者について、知りたいという欲求が生まれた。今なら、何か感じられるかもしれないという思いが、2.のようなワークを生み出したのかもしれない。内山の他者を知りたい、他者と同化するような感覚が、表現に組み込まれた際、どのようなものが生まれてくるのだろうか。
飛田ニケのレポート
内山は、この滞在で、いかにして「私にとっての演劇」を言葉にするか、ということを考えてきたのだろう。そして、それをどのようなかたちで開いていくのか。その試行錯誤として中間シェアはあり、それをより真摯に伝えられるかたちにブラッシュアップし、公開シェアでの彼女の発表はなされたといえるだろう。
まず、中間シェアでは、〈Ship〉参加俳優全員に参加をうながし、紙とペンを用意してもらう。「滞在中のエピソードを思い起こす場所を、想像してほしい」といい、できるだけシンプルな言葉で、その「感覚」を記述する。ふたつ並んだ、椅子に書き手と読み手が座る。読み手の人はそれを黙読し、それについて感想を漏らす。書き手はそれを聞きながら、どう振舞ってもかまわない。このワークを、立場を入れ替えて行い、その次は書き手がべつの俳優と交代して行う。読み手が、黙読し、それについて言葉を述べたあと、その読まれた紙は、自分の足元に「言の葉」として、落とす。それが5人分落とされたものを、最終的には、全員で見た。
内山は、ここで「俳優の言葉」について考え、そのうえで言葉にならないものとはなにかを捉えようとしたという。隣に座っただれかの書いた言葉を読み、そこから言葉を紡ぐプロセスには、他者の言葉とじぶんの言葉のあわいでの思考があらわれる。俳優として滞在して、書かれた言葉が、べつの俳優に読まれ、新たに言葉にし直されるとき、ここに起こる思考のブレンドに、内山の言う「言葉」と「言葉にならないもの」の双方をみることができるだろう。
このワークから、内山がかなり客観的に、俳優とその言葉についてアプローチしていることがわかる。で、内山自身にとっての演劇とはなんなのかと問うてみたくなる。内山という俳優自身の言葉を聴きたくなるような、留保が、中間シェアにはあったといえる。
公開シェアで、内山がおこなったのは、中間シェアのアップデート版と呼んでいいものだった。公開シェアは、劇場の3階にある宿泊所の共有スペースで行われた。基本的な大枠は、中間シェアと変わらないが、そこに、観客が居合わせ、かれらからも、有志のひとりが、俳優の書いた言葉を読み、それについて語った。そして、すべての行いが終わったあとに、内山自身から、彼女が演劇をどう捉えているのかが語られた。
中間シェアで、わたしたちに留保として受け止められたものは、内山自身の言葉が希薄だったこと、それは言い換えれば、俳優としての身体性を、彼女の言葉から感じられなかったということだろう。しかし、内山はここで、じぶんの身体について語る。じぶんが妊娠していて、その身体に、私のものでない他者を抱えているということ、そして妊娠の時期が、俳優として考えるためのこの滞在と重なっていること。彼女の試みにある慎重さは、身体の内から他者について考えざるを得ない、内山の現在から要請されていたと言えるかもしれない。そのうえで、彼女にとっての演劇が、「他者のことを、あなたのことを知りたい」という欲望にあること。それは、身体に宿った子供を想像するような手つきで、目の前の他者を想像しなおすことの繊細さにおいて、観客に受け渡されただろう。
【内山 茜 Akane Uchiyama】
舞踊家/俳優/演出/振付/映像制作など、分野を問わず活動する。2018年に第一子を出産し、以降子育てと創作の両立のための実践をおこなう。 立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻博士前期課程修了。芸術総合高校舞台芸術科卒。人肌くらげ代表。