<参加にあたり・・・> 2017年は、ほとんど仙台にある自宅を使わない生活を送っていた。
所属劇団の二度にわたる東北6県ツアーや、大阪の劇団「コトリ会議」の全国ツアーへの客演、全国各地で行われた演劇祭などのフェスティバルへの参加・・・。
息つくことなく出演に出演を重ね、年間の出演ステージ数は優に100回を超えてしまった。数えてはいないが、150回、ひょっとすると200回に迫るくらいは舞台を踏んだのではないだろうか。(これは小劇場の俳優としては相当に多い方だと思われる。)
そんななかで、兼ねてから耳にしていた〈Ship〉という企画が、実施期間を当初の3週間から1週間に縮め、あらためてメンバーを募集しているということでお誘い頂いた。
いつの間にか過密になってしまった年間スケジュールのなかに、3週間のすき間を作ることができず、泣く泣く断念したお話だったが、1週間であればと参加させて頂くことに決めた。
家がカビだらけになるほど留守にしていたのだから、どうせなら年末まで出来る限り家に帰らないぞ、という気持ちもあった。
いちばんは、立ち止まって考える時間が必要だと思った。旅をして、作品を創って、上演をして・・・旅芸人生活のなかで、日々を生きることに精一杯で、ひとつ作品が終われば、また、来週に迫る別の舞台の本番へ向けてセリフを叩き込む毎日。
それはそれで本望なわけで、充実した日々である。だけれども、ひとつひとつの舞台を踏んで、私は、どこを今、旅しているのか。そんな事柄について思いを馳せる時間が、次の目的地を見定める時間が、必要だと思った。
参加する俳優たちには「自分にとっての演劇とは何か」を考え、プレゼンする時間として、それぞれがファシリテーターとして持ちまわるワークショップの時間が与えられていた。
ほとんど毎週末本番の舞台を踏んでいるにも関わらず、「演劇とはなにか」を言葉にするのは全く容易ではない。日々、刷新され、風化され、進化/退化し、見失い、見出していくものなのだと思う。
だからこそ、今、ここで、このタイミングで、それについて考え直す時間を持てたことに感謝したい。
しかも、それをほぼ同世代の俳優たちと分かち合い、互いに意見を交わすのだ。貴重な1週間となるだろうことは参加する前から、十分に理解できた。
私は横浜へと向かう高速バスのなかで、たくさんの期待と恐怖をもって、考えを巡らせていた。自身の価値観、演劇観を揺るがすような出会いや時間が待っていると思うと、とても怖いわけだが、大きな成長のチャンスだと言い聞かせながら深呼吸した。
さて、まずは来るべき自分のワークショップの時間に向けて、準備を開始したわけだが、あまりにも大きなテーマに考えが進まない。
俳優のワークショップとなると、ことに技術教授の場になってしまう場合が多い。ここで求められているのは、スキルアップや技術交流ではなく、「演劇とはなにか」というプレゼンなのだ。
それも「自分にとって」の演劇だ。私は演劇を初めてたった9年ではあるが、共同作業を行ってきた俳優やダンサー、演出家のなかには何人かモデルにしている人たちがいる。
彼らのモデルと似通うことなく、オリジナルな角度から、自分にとっての演劇を切り出せるかどうか。
私は俳優であるから、ある種、(身体)感覚的に「演劇とはなにか」を捉えているのだと思う。論理的に明確に整理されているわけではないそれを言葉にしていく作業は、例えるなら「なぜ人は歩くのですか?」と聴かれているような感覚に近い。ほとんど毎日のように舞台に出ているのだから、私にとって「演じる」という行為は、あまりにもごくごく当たり前のことになっている。
さて、無数の切り口があるわけで、どうしたものかと悩んでいたのだが、偶然、手もとにあった本に面白い話が載っていた。
それは、ヒトとチンパンジーの発育の比較に関する実験(プロジェクト・ニム)についてで、ある研究者が自分の子どもとチンパンジーの子どもを一緒に育てることで、ヒトを人間たらしめるものは何なのかを見出そうとした取り組みであった。
どうやら3歳までは身体の面でも頭脳の面でもチンパンジーの方が圧倒的に優れている。しかし3~5歳でヒトが逆転するそうだ。3~5歳で、ヒトとチンパンジーを分ける「ある能力」が芽生えるわけだ。
それはどうやら「交換」という操作であるようだ。
3歳児と5歳児に以下の実験を行う。
箱Aと箱Bを用意する。
お母さんが箱Aにリンゴを入れて退室する。
お姉さんが入室し、箱Aから箱Bにリンゴを入れ替え、退室する。
お母さんが再び入室する。
さて、お母さんはどちらの箱を開けるだろうか??
3歳児の場合は、お母さんがリンゴが入っている箱Bを開けると予測する。5歳児の場合は、お母さんがリンゴが入っていない箱Aを開けると予測する。つまり、5歳児の場合はお母さんの立場にたって、「お母さんは、お姉さんがリンゴを移し替えたのを見ていないから、そのままリンゴが箱Aに入っていると思う。」と考えて箱Aを選ぶのである。
これこそが、演劇(演技)の本質なのではないだろうか。全くの自己中心的な世界にいる3歳児から脱却して、ヒトは「 私 と お母さん を交換する 」ことができるようになるのである。言い換えれば、このとき5歳児は「 お母さん を 演じる 」ということを行ったのだ。
演じるとは、「 ワタシ と ナニカ を 交換する 」ことに他ならない。他者とは、当初は母親、父親、兄妹からはじまり、友人、学校の人々、社会の人々・・・と徐々に広がっていく。さらには、一度も出会ったことのないモノや、ヒト以外の動物や植物、物質、架空の人物、過去の人物、未来の人物・・・とも交換を行うようになる。
そして、この「交換可能である」という事実がもたらすものは、我々は「同じ」人間であり「平等」であるということなのだ。
しばしば、演劇が左翼的な性質や文脈を持って語られてきたのもこういった操作が演技の本質にあるからかもしれない。一方で、3歳児の自己中心的な世界観がもたらすものは、ボス社会に他ならず、互いに交換不可能である以上、そこには暴力による解決しか成り立たないのである・・・とするのは乱暴な議論だが、ある程度の納得がいくようにも感じる。
ともかく「交換する」という操作が「ヒト社会」を大きく特徴づけるものであることに間違いはないし、その例は枚挙に暇がない。
この交換という操作に(存在)感覚から特化しアプローチしていく人種が俳優なのではないか。
「交換していることすら忘れるほど没入して、ひたすらに他者であろうとすること」というのは、あまりにも愚かな行為に思えるのだが、ヒトとしての最も本質的な気高いことであるようにも思える。
交換する(演じる)ことについて、「立場を選ぶ」操作であると言い換えてみる。5歳児から成長し、ヒトは複雑な交換操作ができるようになる。
もはや、俳優であらずとも、交換前のワタシ(=3歳児以前のワタシ)がどこにあるのかわからなくなる。<ワタシ>は場面に合わせて様々に、無意識的にも意識的にも選択(交換)されるようになる。
家族のなかのワタシ、学校でのワタシ、恋人としてのワタシ、同僚としてのワタシ・・・。
「ワタシ」を「立ち場」と言い換えてみる。
ヒト社会において、我々はだれしも、色々な立場を抱えて、色々な立場から生きているのである。
例えば、この一年間でも、〈Ship〉のなかでの立場と、劇団ツアーでの立場と、大阪でコトリ会議に客演した立場は全くの別人と言えないか。
そして、それは自由に選び取ってよいものである。自ら、脚本・演出・主演していくのが自分の人生である。たとえ、ほんのちょっと散歩するにしたって、どんな立場で散歩したっていいのだ。毎日、同じ電車に揺られていたって、毎日毎回、別の立場を選んで景色を眺めることができる。
しかしながら、この複雑な社会状況の中で、ワタシを取り巻く環境のなかで、選択が限られてくるのが実情かもしれない。
お母さんには「母」「妻」「娘」「町内会の会計係」・・・たくさんの立場がある。 家庭のなかで「愛欲に飢えた女」の立場なんて選ぼうものなら、非常にキケンなわけで。
ただ、このキケンな立場が歓迎され、拍手を送られる場所がある。それが劇場だ。日常では、選択できない立場を選んで何ら問題のない時間・空間が用意された場所が劇場だ。
日常では交換できない部分を交換(共有)できたり、あらたな交換可能性を提示できる場所、そしてそれを俳優の存在によって表明できるのが劇場なのではなかろうか。
「演劇とは、(真・偽によらない)立場表明である。」というのがひとまずワタシが用意した結論だ。
俳優の仕事とは態度を示すこと、ただそれだけのシンプルなことなのかもしれない。
そんなことをザックリと考えながら、横浜へと荷物と共に揺られてきたわけだが、初日はガイダンスもそこそこに「若葉町フラヌール」なる企画に参加することになる。
これは、滞在先の劇場ウォーフの位置する若葉町やその周辺を歩き回り俳句を創るというもので、多大なる影響を受けたのだが、例によって、それを言葉にするのは難しい。
コーディネーターの島村さんによれば、俳句のポイントは「滅私」「ノイズ」「季語」の3点である。
私は恥ずかしながら全くうまくいかず四苦八苦したのだが、(成果発表である句会では最終的にギャグに逃げたのだが、)こういったポイントで街を歩いてみると新たな気づきがあった。
何か自分が感じ入った景色のなかで、しばし耳を澄ませて、俳句を創る。その際に、携帯電話を使ってその場の「ノイズ」を録音して帰ってくる。
「滅私」とは、いわば、先に述べた「立場の消去」を意味しており、俳句にあらわれるのは、ただそこにある「ノイズ」であり、そこに極小のテーマとして「季語」が付加されているわけだ。
つまり、俳句というテクストが読者に促しているのは、「立場の(再)選択」であり、実際に、参加者が創った俳句は、様々な解釈ができるものが多かった。
戯曲というものは、俳優に対して、明確で精密な立場の選択を要求するものが多いし、そこに対してどれだけの精度を持って、役に落とし込めるか(=立場を選べるか)が俳優の技量の見せ所ともいえる。 俳句は「立場を選ばないという立場」から描かれたテクストといえるかもしれない。その豊かさは計り知れない。これはこれで、読み手の技量や個性によって大きく見える風景が変わってくる。
このアイディアを演劇に拡張したいと思う。 つまり、「立場を表明すること」こそが演劇だと述べたのだが、「どの立場も選ばない(選べない)」という立場が成立しうるのではないか。
そして、そんな俳優の存在を通して、観客自らが「立場を(再)選択する」ことを促す。
そんな立ち方、演じ方があるはずだと思った。
・
さて、ここから、〈Ship〉という企画は、5人の俳優各自の持ち回りワークショップと、また他のファシリテーターによるワークショップ、もうひとつの若葉町フラヌール、1対1の話合いの時間や、ひとり孤独に思考する時間も十分に取って、発表への準備へと向かっていく。
振り返り方として、他の4名の俳優さんたちとの出会いを通して、私の考え方や演劇観にどのような変化があったのか、という形で確かめてみたいと思う。
(私の記憶と立場に基づいた考察であり、この振り返りを通して4名の俳優像が歪んだ形として提示されざるを得ないことを、まず初めに謝罪しておきたいと思う。)
私は、坂東さんのワークショップで「イメージ」の持つチカラに衝撃を受けた。特に印象深かったのが、「脳でストレッチ」というワークだ。片手をしばらくの時間を使ってグルグルと回す。 すると、回していた手の方が緩んで、肩からの長さが長くなる。
その後、目を閉じて、今度は逆の方の手をイメージだけで回す・・・ということをしてみる。なるべくリアルにイメージするのがコツだ。骨、筋肉、皮膚にかかるテンション、遠心力で指先に血が集まってくる感覚・・・そういった感覚をイメージで再構築するわけだ。驚くべきことに、目を開けて鏡を見ると、イメージで回した方の手も、実際に回した手と同じように、長く伸びて緩んでいるのである。
「感覚の再現」というワークは、多種多様に存在するが、今回のワークは初体験だった。目に見えるカタチで成果が現れるのも良かった。
「イメージ、イメージって言われると白けるけど、実はすごく現実的」と坂東さんは語る。確かに、現実的に私の腕は伸びたわけだ。
イメージ談義のようなもので、1対1の会話の際も、坂東さんとは大いに盛り上がった。マクドナルドの店内で「イメージ」について語り合う男女の姿はなかなかに不思議な光景だったと思う。
おそらく、坂東さんは自分の内面を確かめるような作業、身体とイメージとの連関をいかに深めていくかといった作業に重きを置くタイプの俳優なのだと(勝手に)思う。(そして、私も割とそのタイプだと思う。)
こういった話題は、いわば専門職の間に通じるマニアックな話なのかもしれないが、話は尽きず、どこまでも続けられるテーマだ。
ワークショップ、対話を通じて、イメージの持つチカラをもっと信頼してもよいと感じた。イメージに溺れてしまうことは、非常にキケンな側面も持っているし、その場、今ここで起きている出来事からの「かい離」を招くこともあるかもしれない。
けれども、この「イメージ」というツールを使って、俳優は、「選んだ立場」を具現化していくことができるのではないか。
「その立場」から見える景色をイメージできたとき、現実的なものとして、演者にとって、観客にとって、実感を伴ったものとして立場が表明されるのではないだろうか。
・
二日目の朝に行われたワークショップは、リズムゲームからはじまった。5拍子を基本として、二人一組のペアで行うところが興味深かった。
次に連想ゲームを行ったあと、柔らかくなった頭を使って「モノをモノとして捉える」というワークに挑戦。
例えば、イスをイスとして扱わない。なるべく、「ただのモノ」として、ただの「金属の棒状のものと合皮で組み上げられた構造物」として扱う。イスの機能・意味を無効化してみる。参加者全員で、スタジオにあるモノを空間に配置しなおしていく。箒は箒として扱われず、もはやイスはイスではなく、シュテンダーやハンガー、コップやケーブル、ありとあらゆるモノが異化されて組合わされていく。
いつの間にか、俳優の間でも、ハンガーやケーブルなどを身にまとって、身体改造を加えられたかのようにモノとの関係性を取ろうとする遊びが流行しだす。身体までもモノとして扱ってみることで異化されていく。
非日常化された空間はもはや「異郷」と呼ぶべきもので、そこでは「異(化された)人」であることがフツーに感じられてくる。展示物としての身体(俳優)というか、異世界の動物園に来たかのような印象だった。
「自分にとっての演劇とはなにか」というテーマで、こういったワークを持ってくることに、率直にいえば、衝撃を受けた。やはり、私は、内面と向き合うこと、内面深くに潜り込んでいくことで、演技を検討してきたように思う。一方で、なんと客観的な視点から、俳優としての自分をとらえようとしているのだろうと感嘆する。自分自身に付随する意味・機能さえ消去し、空間と時間に対して新たな関係性を再構築しようとすることを演技と呼ぶのは、非常に挑戦的で徹底した取り組みだと感じた。
なんとか、この衝撃を自分の演技に吸収したい。「立場の取り方」とは「関係性の取り方」に他ならない。
自分をあえて異郷に送り込んでみることで、自分が手掛かりにしてきた内面の世界にも、大きな変化を与えることができるのではないだろうか。
また、モノに付随する意味・機能・イメージを取り払っていくことは、感覚のクリーニングのような気持ちよさがある。このことを、なにか技術化できるような予感がしている。
・
続いては、打って変わって、「会話」にフォーカスされた時間だった。
一音(例えば「あ」)だけで会話
母音(「あいうえお」)だけで会話
通常の会話
文脈をワープさせる会話
という順番で、「会話」のワークが続いていく。
一音や母音だけで会話している時の方が、お互いの感情や考えの質感のようなものを伝え合えているように思えるのが不思議だった。 通常の会話に戻った途端に、「意味だけのやりとり」になってしまいがちなのだ。
ボディランゲージという言葉があるが、それは「意味を補う」ためだけのものではなく、意味とはまた別の身体が持つ「感覚のやりとり」というレイヤーがあるのだろう。
そして、「意味だけのやりとり」の怖さを感じた。意味伝達のうえでは、声や身体の持つその他の情報はノイズのようにも思えるのだが、ノイズがあることで意味伝達もスムースになるのではないか。
私は、理学部で物理をやっていたのだが、科学実験でも、実験データに対してノイズを計算にいれないと整ったデータは出てこない。 人間の集中の問題についても、ある程度の雑音は集中力の持続にとって必要なのだそうだ。 フラヌールでもポイントに挙げられた「ノイズ」という点に再度注目が向いた。
さて、ワークはさらに、「文脈をワープさせてみる」という取り組みへ進む。例えば、「朝ご飯、何を食べた?」に対して「そうなんですよね、おれ、テニス部だったんですよ」と返答するような具合だ。
藤村さんは「話が通じない人の怖さ、底知れなさ」というものが興味のようだ。文脈がワープする瞬間のゾッとする感覚は、確かに、日常生活でも感じたことのある類のものだ。
演劇のワークといえばコミュニケーション能力の向上に視点が向けられがちだが、あえて、dis-communicationという視点から切り崩すことで、もっともっと核の部分が見えてくるのではないか。
一音や母音を用いて、つぶさにわかりあえた感覚を経て、お互いに探り合いながら日常会話をしているのは「なにか隠れながら会話しているような感覚」をもたらす。さらに、そこから不意打ちのようにして、予想だにしないリアクションが返ってきたときに、あらためて、自分自身がさらけ出されたような感覚に陥る。これはなんなのだろうか。
普段、我々はお互いに無意識的に安全性を担保しあいながら会話をしている。これが崩壊した瞬間のショックはかなり暴力的でもある。
しかしながら、通常「タブー」とされている部分に踏み込むことに、さらに安全性を担保してくれるのが「演劇」という外枠だ。 dis-communicatinoとは私にとって「(ワタシとアナタの)交換不可能性」ともいえるだろう。そして、この不可能性こそ課題とするべきところであって、演劇が扱うべきものなのかもしれない。
私の中には、どんな人とも自分を交換してみたい(≒どんな人も演じてみたい)という、かなり偏った欲求があるのだが、作業課題の刷新という点においても、この不可能性への敏感なアンテナが非常に大切になってくるだろう。
「安全性が担保されたサービス」として喋らないということを自戒としてメモしておきたい。
・
「藤井さんが自身で用意した自身への質問から、参加者が好きなものを選び、藤井さんに質問する。」というワークショップだった。
これが相当にエグイ内容の質問しかない。 「なぜ演劇をしているのか?」といった具合の根本的な問いかけばかり。
あえて参加者に質問を渡すことで、「自問自答」を「問答」に変化させており、内的な思考のプロセスが公開されたものとして展開していく。ごく個人的なレイヤーにあった課題が共通の問題意識として立ち上がってくる。 (これは、ワークとしてかなり完成されていて、汎用性が高い気がした。安全性に配慮すれば、カウンセリングなどの分野にも十分に応用できるのではなかろうか。というか、既にこういう手法が存在するような気もする。)
彼女は、発表日にいたってなお、「わたしにとっての演劇とは何か?」について確固たる答にはたどり着いていないと言っていた。 けれども、私には、この徹底した自問自答の姿勢こそが彼女にとっての演劇なのではないだろうかとも思えた。
ひとつの<思考の><演技の><創作の>スタイルであるといえるくらいに徹底した自問自答は、ひとつの演劇に見えた。
演劇とは何か。「(自)問(自)答」なのではと思う。
・
私の担当したワークショップでは、あらかじめ、<自分><身近なだれか><気になるだれか>という3つのトピックについて、どんな立場を持っているのかを考察する時間を設けた。
その後、<自分の立場>をあらためて選び取ったうえで舞台に立ってもらい、同時に立ちあがってくる共演者=<他者の立場>と関係性を結んでみるということを試してみた(つもり)。
みなさんの俳優としての素晴らしい協力があって、いろいろな立場をいろいろな立ち方で、ある程度の強度をもって、舞台に立ち上げることができたと思うのだが、その先に思いがけない自分の欲求があることに気が付いた。
それは、「異なる立場を同じ舞台上に共存させたい」という欲求だった。また一見して、交換不可能に見える立場同士をこそ、共存させたいと思う。
大義名分ではあるが「共存と平等」という志向が自分の演劇観のなかにあるようだ。 自分と他者、それぞれの関係への公平さが私にとっては演劇の根底になければならない。
交換可能性により選び取った<それぞれの立場>とのあいだにもまた<立場の交換>が成り立つのかどうかという試行が演劇という時間といえる。
交換(=交感)しあいながら、自分たちにとっての<世界の在り方>を規定していくのが演技といえるのではなかろうか。
<立場>と<立場>のあいだに存在しうる関係性を探ることは、出会いのカタチを探すことともいえる。 ここに、なぜ、この1年間、わたしが旅にこだわり続けて演劇活動をしてきたのかということも多少の納得を得た気がする。
立ち<場> から 立ち<場> へと旅をしつづけることで、ありとあらゆるものと自身を交換(=交感)していくことが私にとっての俳優の仕事である。
では、これを外側から眺めている<観客の立場>とはいったいなんなのだろう。このことについては、また、よくよく考え直さなければと思う。
ワークショップと対話を通じて、未消化な部分もとても多いのだが、このような<立場>にいたり、この<立場>を告白すべく、発表日に向けて作品創作してパフォーマンスをしようと決意した。
しかし、自分の作品についてあれこれと書くのは気が引けるのと、客観的にとらえられないのと、寺田さんのレポートが私には到底できないほど素晴らしくまとめてくださっているので、ここで振り返るのはやめておきたいと思う。
思うがままに書き始め、字数もおよそ1万字というところで、これ以上ダラダラと紙面を汚すのは自分のノートの中だけに留めようと思う。
「自分にとっての演劇とはなにか」という当初は茫洋とした感覚やイメージだったものに、自分なりに言葉を与えることができたのは、私にとっては、とても成果のあるものだった。
また、外部のファシリテーターを招いたワークショップの時間や、もうひとつのフラヌールやみなとの世界文学といった周辺企画、横浜の街での出会い、毎晩深夜まで交わした演劇論など、今回の滞在でかけがえのない多くの体験を得たことは書き残しておきたい。 ぜひ、この企画が俳優育成プログラムとして継続することを望んでやまない。そして、なんらかの形で私も関わり続けていけたらと思う。
参加者のみなさま、関係者のみなさま、劇場のみなさま、横浜のみなさま、そしてお客様に深く感謝しつつ、この機会を無駄にせぬよう、俳優としての航海に日夜全力を注いでいきたい。
【本田 椋 Ryo Honda】
1990年生まれ。新潟県長岡市出身。劇団 短距離男道ミサイル所属、俳優。 東北大学在学中に演劇部に所属し舞台活動をはじめる。2012年より劇団 短距離男道ミサイルに所属。同劇団にて2017年『母さん、たぶん俺ら、人間失格だわ〜』にて、CoRich 舞台芸術まつり!2017春 グランプリ受賞。コトリ会議、飯田茂実演出作品など外部出演作多数。利賀演劇人コンクール2019『桜の園』(中村大地 演出)にて、俳優として史上二人目となる奨励賞を受賞